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調べ物案内

調査団報告書 特別編「渋沢栄一は名古屋にも縁があったってホント?」

調査内容

「渋沢栄一は名古屋にも縁があったってホント?」

調査手順

『渋沢栄一を知る事典』を見ると、渋沢がかかわった名古屋の会社が分かりました。また、渋沢栄一伝記資料』の58巻が事業別年譜ということが分かりました。そこで、この58巻を元に「名古屋」に関する項目を拾い、必要に応じて各巻にあたりました。調査過程で57巻にも旅行関連記事が収録されていることが分かったので、同様の作業を行いました。
『渋沢栄一伝記資料』は、図書館から閲覧できる国会図書館デジタルコレクションの中にも入っているので、「名古屋」を含む記事を全文検索で抽出して、可能な限り渋沢栄一と名古屋の関連を探しました。

調査結果

解決スタンプ

渋沢栄一は、名古屋にもちょっと縁がありました。渋沢の孫のひとり、阪谷俊作が初代の名古屋市立図書館長を務めたというエピソードはありますが(「発見名古屋の偉人伝No.30」を見てください!)、それをおいておくとしても若干のつながりがあるのです。

まずは会社経営の側面から見ましょう。実は、渋沢は1896年(明治29年)、他のメンバーとともに、金沢と名古屋を繋ぐ鉄道を作ろうとしたことがあります(「金城鉄道会社」の発起人・創立委員長)。もっとも、地域の海運が発達していたためか、計画は幻に終わりました(9巻pp359―60)。また、1906年(明治39年)には、名古屋瓦斯会社、名古屋電力株式会社、東海倉庫株式会社という名古屋の新設会社3つ全てで相談役を務めることになります。ただし、全て2年から3年で辞任しています(12巻pp733―5,13巻p42,14巻pp374-6)(Ⅰ)。
実業界の大物である渋沢は、全国をまたにかけて各種会合や式典に参加しており、時折、名古屋にも訪れています。1910(明治44年)に名古屋に来た時には、鶴舞公園で舞踊を見て、共進会(Ⅱ)にも行き、さらには名古屋城にも訪れたりしたとのことです(57巻p546-7)。1915年(大正4年)には、八勝館で開かれた保険会社主催のパーティーに参加しました。開会後に講演した後は銀行関連の用事でその場を去ったため、「名古屋名物の饂飩、八事名物の湯豆腐」などは食べ損ねた可能性が高いです(51巻pp 231-5)。また、自らの知己であった矢野二郎の弟子の市邨芳樹が校長を務めた市立名古屋商業学校には祝辞のために3度訪れたり(Ⅲ) 、校長の銅像の題字を書いたりしており、義理堅い人物だったのかもしれません(44巻p459ー476)。他にも、渋沢は災害時の寄付金、時には大学(早稲田大学)への寄付金を集めるために各地を行脚した際、名古屋を訪れています(31巻pp251-2、pp289-91,45巻pp366-7)。逆に、名古屋からは覚王山日暹寺(後に日泰寺)の日置黙仙(第3代住職)(Ⅳ) が、何らかの援助依頼で、東京の邸宅まで渋沢を訪問したこともあったようです(42巻p94)。
最後に渋沢の100年前の名古屋評を。1916年(大正5年)の雑誌『竜門雑誌』のインタビュー記事「名古屋の現在と将来」で名古屋の人を論ずるには、「名古屋人は極めて利巧で、誠実で、余程に細密な注意をなす人々である」が、「何うも何となく旧い思想、藩政時代の頭がすたらぬらしい」ようです。もっとも同時に「近来少しく大規模の事業も出来かけて、所謂世界的の頭を持つた方々が大分相当に発展されて、同地に於ける重要の人物となつてゐるを見受けるは誠に喜ばしい事だと思ふ」と述べています(Ⅴ)。また、名古屋自体については、「大工業地、大産業地たる名古屋建設を理想とする者として、或は築港改革、其他大々的廓清、拡張を唱ふる人士があるが、それは考ふ可きで、却て一代拡張は名古屋市を破壊せしむるやもしれぬ。然りと雖も名古屋人は其拡張に努めず、只金の鯱を誇りとして安逸たれと説くのではないが、急速の大々的拡張は一考すべきだと云ふのである」と身の丈にあった「発展」を説きます(別巻7pp30-32)。みなさんは、この評価をどのように評価するでしょうか。

今回の調査で使った資料

(Ⅰ)このうち1909年(明治42年)に辞任したのは、名古屋瓦斯会社および東海倉庫株式会社の取締役ですが、このとき渋沢は老齢を理由に「第一銀行及東京貯蓄銀行を除くの外一切の職任を辞退」しています(12巻p735、14巻p375)。ただし、辞任の背景には日糖事件というスキャンダルに必ずしもうまく対処できなかったこともあることが示唆されています(『渋沢栄一を知る事典』pp87-8)。
(Ⅱ)共進会とは「産業振興の目的で、農作物や工業製品を展覧して品評・審査する会。明治政府が各地で開催」(『広辞苑』第7版)というもので、このときの共進会は「第十回関西府県聯合共進会」として知られるものです。いくつかの文献に載っていますが、ここでは説明が簡潔かつトイレ事情にも触れているユニークな研究『有料トイレのルーツ-博覧会・共進会の高等便所- 第六〇回定例研究会』山崎達雄 2015(下水文化研究第27号別冊)を挙げておきます。同論文pp38-9によれば、会場には行政が用意した無料トイレと有料トイレ、および民間団体によるトイレ備え付けの無料休憩所があり、このうち有料トイレの利用者はほとんどいなかったのことです。果たして、渋沢が会場のトイレを利用したかは定かではありません。共進会会場全体図は、例えば『第十回関西府県聯合共進会会場案内図』をご覧ください。
(Ⅲ)44巻p476に「参考」として『青淵回顧録』下巻から、市邨芳樹の渋沢に対するコメントが引かれ「創立二十五年祝賀式、同三十年祝賀式並びに私の為に企てられた謝恩式の式典と、前後三回も渋沢子爵が遠路態々御来臨下さいました」と記されていますが、そのうち「創立二十五年祝賀式」の出席については、伝記資料の他の記述では確認できませんでした。一方、三好信浩も、市邨と渋沢の関係について述べる際、「三十年祝賀式」と「謝恩式」の講演には言及しますが、「創立二十五年祝賀式」については全く触れていません(『渋沢栄一と日本商業教育発達史―産業教育人物史研究Ⅲ』pp220-3)。また、三好は同書pp263―74にかけて、矢野二郎の紹介および矢野と渋沢の関係を論じています。
(Ⅳ)日泰寺の初代からの住職一覧は覚王山日泰寺HP「歴史」(http:www.nittaiji.or.jp/11histo) を参照。
(Ⅴ)『渋沢栄一と日本商業教育発達史―産業教育人物史研究Ⅲ』p222は、先述の市邨について触れている、この記事の別の箇所を引用しつつ、渋沢の名古屋像が否定的なものから肯定的なものに「変化」したと論じ、その要因を市邨の功績に帰しています。

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