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調査内容
南区の笠寺に「人質交換之地」という石碑がありました。碑文には人質になった竹千代(徳川家康の幼名)と織田信広が笠寺で交換された、と書かれています。それまで竹千代は笠寺に住んでいたのですか?
調査手順
幼少期の家康について、「徳川実紀」を調べてみよう。これは江戸幕府が編纂した徳川の歴史書だ。ふむふむ、人質になったのは六歳の時。小学校一年生で人質になったのか......大変だな......それからしばらく尾張にいたけれど、笠寺に住んでいたわけではないみたいだ。人質交換は「三河の西野笠寺」で行われたそうだ。あれ、尾張じゃなくて三河??
調査結果
「徳川実紀」によると、天文十六年に捕らわれの身となった竹千代は、天文十八年十一月十日の人質交換まで、織田信秀(信長の父)の保護のもと、最初は熱田の加藤図書順盛のところに、ついで万松寺で暮らしていました。笠寺地域で行われる鍬形祭(五月五日の節句の祭)はこの人質交換の故事を起源とする、という説があります。
なお、「徳川実紀」では「三河の西野笠寺」で人質交換されたとありますが、現時点では三河地方で笠寺という地名は確認できていないようです。尾張笠寺と明記する史料(史実の根拠となる資料)は見つかりませんでした。
今回の調査で使った資料
- 『国史大系 第38巻 徳川実紀 第1篇』吉川弘文館 1998年
- 『南区の歴史』愛知県郷土資料刊行会 1986年
- 第1回家康公検定 家康公顕彰400年記念行事として岡崎・浜松・静岡商工会議所が実施 http://www.okazakicci.or.jp/iyeyasu400/kaisetunew1.pdf(最終確認日2015/12/24)(外部リンク)