調査団報告書No.117
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調査内容
むかし、本願寺名古屋別院(西別院)の境内に野球場があったって聞いたけれど、どうしてお寺の境内に野球場ができたの?
調査手順
名古屋の球場について書かれた『なごや昭和写真帖キネマと白球』を見てみると、終戦直後に5年だけ存在した球場で、名前を「大須球場」というようです。大須七ツ寺勤労共和会会長高島三治氏が中心氏が中心となって、西別院の再興と大須商店街の発展のため愛知県や名古屋市も協力して建てられました。
また、名古屋西別院の発行している新聞「なごやにしべついん」には、名古屋大空襲で鐘楼と南門を除くすべての建造物を焼失したことが書かれていました。戦災復興を目指して地域と協定を交わし、跡地に大須球場が建設されたそうです。
もう少し詳しいエピソードがないかな、と思い、大須のまちの変遷を綴っている『名古屋大須ものがたり』や、中日新聞の記事をデータベースで探して見てみます。
球場主の高島氏は戦争直後、焼け野原で草野球を楽しんでいる人々を見て、もっと広いところでのびのびと野球を楽しんでほしいと球場建設を思いつき、西別院の焼跡四千坪を購入したそうです。球場はプロ野球の試合も行われていましたが、外野席の奥に鐘楼があったため、外野に膨らみがない三角形のグラウンドで、どんどんホームランが出たのだとか。経営難で閉場を決定し、現在は名古屋スポーツセンター(大須スケートリンク)ともとの持ち主である西本願寺の敷地になっています。
調査結果
戦災で焼跡となっていた西別院の境内が売却され、復興のために球場が建設されました。お寺の敷地ではなかった時代に、野球場となっていたのですね。
今回の調査で使った資料
- 『なごや昭和写真帖キネマと白球』長坂英生/著 風媒社 2022
- 「なごやにしべついん」2020年4月16日号、6月16日号
- 『名古屋大須ものがたり』沢井鈴一/著 堀川文化探索隊 2010
- 「中日新聞」2013年9月21日夕刊