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調査内容
覚王山にある日泰寺の「泰」は、タイ国の意味と聞きました。どうして名古屋のお寺の名前に外国の名前が入っているのでしょうか?
調査手順
まずは日泰寺の由来が載っていそうな『釈尊御遺形傅來史』『微笑みの白塔』『弘法さんかわら版』を見てみました。これらによると、1898年にインドで発見された仏舎利(ぶっしゃり)(お釈迦様の骨)がタイに贈られ、1900年にその一部をタイ王室が日本に寄贈してくれることになりました。その骨を納める候補地として東京、京都、遠州三方ケ原などが検討されましたが、1902年、官民あげて熱心に誘致活動を行った名古屋が選ばれたとあります。またタイは昔「シャム」と呼ばれていたことからその国名を表す「暹(せん)」と日本の「日」をとって「日暹寺(にっせんじ)」と名づけられ、その後1939年にシャムが「タイ」と国名を改めたことから1942年に現在の呼び名「日泰寺」と改称されたことがわかりました。
1963年6月には、当時のプミポン国王とシリキット王妃が日泰寺を訪れており、その時の写真が『覚王山日泰寺 写真集』『釈尊御遺形傅來史』についています。
地名の「覚王山」については、日泰寺の山号「覚王」によって、寺付近を覚王山と呼ぶようになったと『千種区の歴史』に書かれています。
調査結果
タイから日本に贈られた仏舎利を納める覚王殿候補地選びには1年以上かかりましたが、最終的に名古屋に決定しました。また寺の名前は、日本とタイの友好のしるしとして日泰寺と名づけられました。
今回の調査で使った資料
- 『釈尊御遺形傅來史 覚王山日泰寺奉安塔の由来』寺沢玄宗/著 覚王山日泰寺 1981
- 『微笑みの白塔 釈尊真骨奉安百周年』加藤竜明/著 中日新聞社出版開発局(制作) 2000
- 『弘法さんかわら版 弘法大師の生涯と覚王山』大塚耕平/著 大法輪閣 2008
- 『覚王山日泰寺 写真集』老川良一/写真撮影 覚王山日泰寺 2000
- 『千種区の歴史』千種区婦人郷土史研究会/編 愛知県郷土資料刊行会 1981