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調査内容
久屋大通は、幅が100メートルあるって聞いたけど、どうして名古屋にそんなに広い道路があるの?歩いて渡るとき、いつも信号が途中で変わっちゃって大変なんだよねぇ。
調査手順
名古屋にある100メートル道路といえば、市の中心部を走る「若宮大通」と「久屋大通」のことだね。
まず、名古屋市史の索引を「100メートル道路」で引いて、『新修名古屋市史』第7巻に記載があることを確認。この巻は、終戦から昭和の終わりまでの時代を扱ったものだ。どうやら、終戦後すぐの戦災復興のための都市計画と関係があるらしいことがわかった。
今度は、都市計画をテーマにした資料のある〈土木〉の分類の書架をチェックしてみよう。『名古屋都市計画史』という資料には、大正8年から昭和44年にかけての名古屋の都市計画について書かれている。他には『名古屋の町づくり』『名古屋の街 戦災復興の記録』『戦災復興誌』が参考になった。
これらの資料の中には、計画を推進した人物として、田淵寿郎という人の名前が出てきたのだけれど、気になるので、〈伝記〉の分類の書架を探すと、『土木技師・田淵寿郎の生涯』が見つかった。
調査結果
戦後の名古屋の都市計画は戦災復興事業として策定された。100メートル幅の路線2本を含む、42路線、総延長286キロメートルにおよぶ幅の広い幹線道路の整備をはじめ、各区への計画的な公園の配置などが代表的なものとしてあげられる。マイカーの普及していない時代、どうして100メートルもの幅が必要だったかといえば、将来の自動車社会の到来を予測していたことだけではなく、市の中心部の防災・防火機能の強化と美観の向上ためでもあったということがわかった。
ちなみに、これらの計画を実現するには、計画区域内に点在していた約300もの寺院の墓地を千種区の平和公園にまとめて移転させ土地を確保するなど、行政の一存では実行できない数々の"大仕事"が必要で、お寺や多くの市民の協力が不可欠であった。戦災復興事業には、将来名古屋の人口が200万人になっても(終戦時の人口は約60万人)安心して生活できる理想都市を作るという雄大な目標があったのだけれど、その思いは当時の名古屋で暮らす人たちみんなの願いでもあったのだ。
今回の調査で使った資料
- 『名古屋都市計画史 大正8年~昭和44年』名古屋市計画局/編著 名古屋都市センター 1999
- 『名古屋の町づくり』中部建設協会 2003
- 『名古屋の街 戦災復興の記録』伊藤徳男/著 中日新聞本社 1988
- 『戦災復興誌』名古屋市計画局戦災復興誌編集委員会/編 名古屋市計画局 1984
- 『土木技師・田淵寿郎の生涯』重網伯明/著 あるむ 2010
- 『新修名古屋市史』第7巻新修名古屋市史編集委員会/編集 名古屋市 1998
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- 調査団報告書No.21 「久屋大通は、幅が100メートルあるって聞いたけど、どうして名古屋にそんなに広い道路があるの?歩いて渡るとき、いつも信号が途中で変わっちゃって大変なんだよねぇ。」 <PDF形式,199KB>(2014年8月作成)
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