ページの先頭です。
本文へジャンプする。
ここから本文です。

調べ物案内

調査団報告書No.104

調査内容

尾張藩の薬草園について聞いたことがあるのですが、どこにあったのでしょうか?

調査手順

名古屋のことといえば、『名古屋市史』を見てみよう。『名古屋市史 地理編』の604ページに御下屋敷の構内に薬園があり、朝鮮人参を植えていたことが書かれてあった。
『名古屋市史』によると、薬園は本草学に通じた人が関わっていたとわかったので、『伊藤圭介と尾張本草学』を見てみる。7ページに尾張藩の薬園は「御深井(おふけ)御薬園(おやくえん)」と「御下屋敷(おしたやしき)御薬園」の二か所あったと書かれており、薬園の場所(推定)がわかる地図もあった。『本草学と洋学』にも薬園の成立と変遷について詳しく書かれており、開発期から維新までの薬園管掌者の系譜もあった。
『徳川林政史研究所研究紀要 第29号』の「近世国家における人参栽培と薬師信仰」の中に藩の薬園で栽培した尾張藩産の人参を幕府を通じて日光山に献上したことが書いてあった。

調査結果

解決スタンプ

尾張藩の薬園は、現在の名古屋城北側に位置する「御深井御薬園」と東区葵一丁目の代官町周辺の「御下屋敷御薬園」の二か所あった。「御深井御薬園」は、承応元(1652)年には将軍家綱から拝領した薬種39種が植えられていたことがわかっている。「御下屋敷御薬園」は、享保20(1735)年に七代将軍宗春が将軍吉宗から朝鮮人参七本等を拝領し栽培したことに始まった薬園。最初は宗春の御側医高橋玄仙によって植え付けされ、のちに普請組寄合の三村森(しん)軒(けん)が人参御用に命ぜられ、栽培に成功。御下屋敷御薬園はのちに御深井御薬園より重要になり、規模も6800坪になった。その後、文化2(1805)年には浅井貞庵が御薬園預かり、水谷豊文が御薬園御用懸に任ぜられ、薬園の全盛期を迎えた。

今回の調査で使った資料

pdfダウンロード

get adobe reader
PDF形式のファイルを閲覧するにはAdobe Reader(無料)が必要です。
※AcrobatReader5.0以上を推奨しています。

▲ページトップへ