蔵書情報
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資料情報
各蔵書資料に関する詳細情報です。
No. |
所蔵館 |
資料番号 |
資料種別 |
配架場所 |
別置 |
帯出 |
状態 |
1 |
鶴舞 | 0238211098 | 一般和書 | 2階開架 | 人文・社会 | | 在庫 |
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書誌詳細
この資料の書誌詳細情報です。
請求記号 |
104/00560/ |
書名 |
あらわれを哲学する 存在から政治まで |
著者名 |
荒畑靖宏/編著
吉川孝/編著
|
出版者 |
晃洋書房
|
出版年月 |
2023.3 |
ページ数 |
24,270,7p |
大きさ |
22cm |
ISBN |
978-4-7710-3707-6 |
分類 |
104
|
一般件名 |
哲学
|
書誌種別 |
一般和書 |
内容紹介 |
世界は、その根本のところで、<なにかが・なにかに対して・なにかとしてあらわれる>というあり方をしているのではないか-。存在から政治まで、現象学の無限の可能性を論じる哲学的探求。論文全16編を収録。 |
タイトルコード |
1002310002843 |
要旨 |
世界は、その根本のところで、(なにかが・なにかに対して・なにかとしてあらわれる)というあり方をしているのではないか。これが私たちの直観である。そしてこの直観は、さらなる哲学的探究へと開かれていく。 |
目次 |
第1部 ある(存在と真理 存在と真理における「多と一」 無と持続―メルロ=ポンティによるベルクソン批判を巡って) 第2部 あらわれる(意識を意識する―「意識」概念への媒介論的アプローチ 体験の一回性について 像はどのようにあらわれるのか―フッサールの像意識論を解釈して擁護する 魔術とは何か―自然主義的アプローチ) 第3部 かんがえる(デカルトと合理主義の臨界 哲学は遅れて―メルロ=ポンティと構造の問い 認識と倫理―水俣から問われる哲学) 第4部 よくいきる(現れを迎え入れるという倫理 レヴィナスにおける悪と責任 私は「私」から出られるのか) 第5部 ともにある(喪失という撹乱―死別を中心に 不可視性と共同体の倫理―アウグスティヌス「説教」九九における聖書解釈から 自由と政治(ただ共にある)ことを護る) |
著者情報 |
荒畑 靖宏 フライブルク大学哲学部博士課程修了(Dr.phil.)。慶應義塾大学文学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 吉川 孝 慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程修了、博士(哲学)。高知県立大学文化学部准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) |
内容細目表:
-
1 存在と真理
2-17
-
荒畑靖宏/著
-
2 存在と真理における「多と一」
18-33
-
秋葉剛史/著
-
3 無と持続
メルロ=ポンティによるベルクソン批判を巡って
34-49
-
岡嶋隆佑/著
-
4 意識を意識する
「意識」概念への媒介論的アプローチ
52-68
-
田口茂/著
-
5 体験の一回性について
69-84
-
村田憲郎/著
-
6 像はどのようにあらわれるのか
フッサールの像意識論を解釈して擁護する
85-100
-
植村玄輝/著
-
7 魔術とは何か
自然主義的アプローチ
101-116
-
武内大/著
-
8 デカルトと合理主義の臨界
118-133
-
秋保亘/著
-
9 哲学は遅れて
メルロ=ポンティと構造の問い
134-148
-
小林徹/著
-
10 認識と倫理
水俣から問われる哲学
149-162
-
吉川孝/著
-
11 現れを迎え入れるという倫理
164-179
-
小手川正二郎/著
-
12 レヴィナスにおける悪と責任
180-194
-
村上暁子/著
-
13 私は「私」から出られるのか
195-211
-
中村佑子/著
-
14 喪失という攪乱
死別を中心に
214-229
-
中真生/著
-
15 不可視性と共同体の倫理
アウグスティヌス「説教」九九における聖書解釈から
230-245
-
佐藤真基子/著
-
16 自由と政治
<ただ共にある>ことを護る
246-262
-
斎藤慶典/著
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