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名古屋の偉人伝 No.16 高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)の巻

ここがスゴイ!

「高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)」の図 『猿猴庵日記』(写本)より。

尾張藩士にしてアマチュアのジャーナリスト。彼がのこした詳細な絵と文は、江戸時代の名古屋城下の様子を知る貴重な手がかりとなっています。

こんな人生を送ってきました

猿猴庵はペンネームで、本名は高力種信(こうりきたねのぶ)と言います。尾張藩士の家系である高力家の七代目として、宝暦6(1756)年に生まれました。
猿猴庵の住まいがあったのは、現在の中区栄一丁目。近くには大書店永楽屋や、貸本屋大惣がありました。
明和9(1772)年、17歳のときに『猿猴庵日記』を書き始めたのが、執筆活動の始まりだと考えられています。その後生涯にわたって名古屋城下のお祭りや見世物、名所などについて100種以上もの作品を執筆しました。中には、葛飾北斎が名古屋で巨大なだるまの画を描いたときの様子を記録したもの(『北斎大画即書細図』)や、オランダからやってきたラクダが名古屋で大ブームになった様子を記録したもの(『絵本駱駝具誌』)などもあります。
晩年の作品として知られるのは、尾張地方の名所案内の先駆けとも言われる『尾張名陽図会』。残念なことに、完成を間近にして病死してしまいます。天保2(1831)年、享年76歳でした。その後、弟子の小田切春江(おだぎりしゅんこう)が転写・彩色して仕上げました。
当時の名古屋の市井の様子をいきいきと書きのこした猿猴庵ですが、彼自身を知る文献はほとんど見つかっていません。

もっとくわしく知りたいあなたに

※名古屋市博物館から発行されている「猿猴庵の本」(外部リンク)シリーズでは、猿猴庵の作品のいくつかを翻刻版で見ることができます(解説つき)。

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