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名古屋の偉人伝 No.11 人見き邑(ひとみきゆう)の巻

ここがスゴイ!

「人見き邑(ひとみきゆう)」の画像 『露竹齋筐中書』より、
細野要齋自筆

九代藩主徳川宗睦(むねちか)のもと、宗春以来の財政の行きづまりを克服、農村の荒廃を立て直した「天明の改革」の推進者の一人。藩校明倫堂の設立にも関わった。

こんな人生を送ってきました

享保14(1729)年10月24日生(諸説あり)から寛政9(1797)年2月2日没。
幕府の儒学者人見靖安の次男として江戸四谷で生まれる。尾張藩に仕官した叔父貞安の養子となり、寛延3(1750)年、後に九代藩主となる徳川宗睦の近侍を勤めた。宗睦が藩主となった後も世継ぎの教育を担当していたが、安永4(1775)年に教育担当から実際に藩政を担当する国用人となる。
治水を掌り、新川を掘り下げ、庄内川を分注して農田に利用した。農政改革を行い、旧来城下に詰めていた代官を駐在制にし、問題になっていた役人の不正を防いだ。巡察をよくし、天明の大飢饉では被災者の救済に力を尽くした。細井平洲を呼び寄せ共に藩校明倫堂の基礎を固め、『群書治要』の校刊にも携わる。天明5(1785)年病を得て職を辞したもの再度起用され、世継ぎの補佐をしたが2年後に引退、69歳で亡くなった。

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