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名古屋の偉人伝 No.25 桐生悠々(きりゅうゆうゆう)の巻

ここがスゴイ!

桐生悠々の写真 信濃毎日新聞時代の桐生悠々(金沢ふるさと偉人館提供)

日本が太平洋戦争へ向かっていく中で、主筆として就任した「信濃毎日新聞」に「関東防空大演習を嗤(わら)う」という評論記事を執筆・掲載し、軍部を批判。晩年は名古屋で読書会を組織し、個人雑誌『他山の石』を発行。生涯にわたりジャーナリストとして「言わねばならぬこと」を貫いた。

こんな人生を送ってきました

1873(明治6)年、金沢市で生まれる。本名は政次(まさじ)。19歳の時小説家を志し、通っていた第四高等中学校を中退し同級生の徳田秋声と共に上京するが、のちに復学。卒業後、帝国大学法科大学政治学科に入学。
1902(明治35)年、下野新聞主筆となる。その後大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、信濃毎日新聞を経て1914(大正3)年、新愛知新聞主筆。この時、米騒動に対する政府の報道禁止措置に立ち向かう(1918年8月16日、新愛知新聞「新聞紙の食糧攻め 起てよ全国の新聞紙!」)。
1924(大正13)年、経営陣と対立し新愛知新聞を退社。総選挙に立候補するが惨敗。
1928(昭和3)年、信濃毎日新聞に主筆として招聘(しょうへい)される。1933(昭和8)年8月11日、軍部が行った防空演習を批判する社説「関東防空大演習を嗤う」を発表。その後信濃毎日新聞を退社し、名古屋に転居。名古屋読書会を組織し、個人雑誌『名古屋読書会報告(後に『他山の石』と改題)』を刊行。海外の政治・経済・思想・文化に関する新著の要約紹介や時事評論が掲載され注目を集めたが、治安当局に幾度も削除や発行禁止を命じられる。
1941(昭和16)年、『他山の石廃刊の辞』で「この超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍縮を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」と認(したた)め、喉頭がんのため死去。

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