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名古屋の偉人伝 No.20 正村竹一(まさむらたけいち)の巻

ここがスゴイ!

初期の正村ゲージの写真 初期の正村ゲージ『なごや100年』より

パチンコ機械「正村ゲージ」を考案。その斬新な仕組みを同業者にも開放し、パチンコが普及するきっかけを作ったことにより「現代パチンコの生みの親」といわれる。

こんな人生を送ってきました

明治39(1906)年、岐阜県稲葉郡茜部村(現在の岐阜市)にて貧しい農家の三男として生まれる。口減らしのため、10歳で生家を出された後、指物屋や酒問屋などで働きながら、モノづくりの技術や商売の基本を習得する。
昭和2(1927)年、21歳でガラス商として独立し、名古屋市西区江川横町で店を構える。昭和11(1936)年には、副業としてパチンコ店を開業する。戦時中の規制によりパチンコ店は一時閉業するが、昭和21(1946)年5月に「浄心遊技場」を開店し、本業としてパチンコ業を再開。さらにパチンコ機械の製造にも乗り出す。
昭和23(1948)年、独特の釘の配列や"風車"などの斬新な仕組みを取り入れたパチンコ機械「正村ゲージ」を開発すると、全国のパチンコ店から注文が殺到し、爆発的なヒット商品となる。「正村ゲージ」の画期的な機構について、特許を取得せず、同業者にも解放したため、パチンコが戦後の庶民の娯楽として広く普及するきっかけとなった。その後、ホテル経営など別事業にも精力的に取り組んだが、昭和50(1975)年、病のため69歳で亡くなった。

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